クレジットカードに「疑念」を持ち始めたとき

AMEX centurion

クレジットカードに「疑念」を持ち始めたとき

 

本日は、私のクレジットカード観について書いてみたいと思う。



ただし、これはおすすめカードの話ではない。



むしろ、カードという道具に対して、少し距離を置くようになった話だ。

 


クレジットカードの機能は、ほとんど同じだ

冷静に考えれば、クレジットカードの本質的な機能に大きな違いはない。

それは信用を一時的に肩代わりする装置という一点に集約される。

 

年会費無料か、有料か。

ポイントか、マイルか。

付帯サービスが充実しているかどうか。

 

それらは選択肢ではあるが、本質ではない。

 


それでも、人はカードに意味を与えてしまう

それでも多くの人は、カードに何らかの意味を読み込んでしまう。

特に男性はそうだ。

 

「このカードを出したとき、自分はどう見られるのか。」

 

これは見栄というよりも、恐れに近い感情なのだと思う。

 


「こう見られたい」より「こうは見られたくない」

かつて、あるコピーライターがこんなことを書いていた。

 

男の願望は

「こう見られたい」よりも

「こうは見られたくない」に強く働く

 

当時の私は、この言葉に強く共感した。

 

好きな女性の前で、あるいは人目のある場所で、自分のカードを差し出す瞬間。

そこに量販店名が大きく印刷されたカードしかなかったら——

確かに、少し気後れする。

 

それが実害を生まないことは、頭では分かっている。

それでも、心はそう簡単には割り切れない。

 


だからブラックカードに惹かれた

当時の私は、ブラックカードに「楽さ」を見ていたのだと思う。

 

余計な説明をしなくていい。

余計な不安を抱えなくていい。

余計な視線を気にしなくていい。

 

そう、ブラックカードは自己主張のための道具ではなく、自己防衛のための道具として魅力的だった。

 


しかし、違和感も同時にあった

一方で、こんな疑念もあった。

 

本当にこのカードは、

自分の生き方と釣り合っているのだろうか。

 

ブラックカードを「どう見られるか」のために使い始めた瞬間、それは自分を軽くしてしまう気がした。

 


カードは、人を語らない

今なら、はっきり言える。

カードは、その人を語らない。

 

語るのは、その人がどんな時間を過ごし、どんな判断を日常的にしているかだ。

 

前提条件が整った人が使えば、カードはただの道具になる。

整っていない人が使えば、カードは重荷になる。

 


後記

かつて私は、カードに「自分をどう見せるか」を求めていた。

今は違う。

カードは、自分を飾るためのものではない。判断を軽くするための道具だ。

もしブラックカードを持つ意味があるとすれば、それは「見せるため」ではなく、見せなくても済む立場にあることの結果として、静かにそこにあることだと思っている。

 

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