見栄っ張りなオトコだった頃の話
※この記事は、過去に「見栄っ張りなオトコ」について書いた文章を現在の視点から読み直し、再編集したものです。当時の直観と、今の距離感の両方を残しています。

「あいつは見栄っ張りだ」
そんな言葉を、どこか他人ごとのように思っていた時期がありました。
でも、気づいたのはある日ふとした瞬間です。
そう、鏡に写った自分を見たとき、その“どこか格好をつけている自分”は他人の評価を意識している自分だったということ。
当時の私はそれを「良い見せ方」だと思っていました。
言い換えれば、「他人にどう見られているか」を合理的な判断基準にしていたのです。
例えば、趣味やライフスタイルの表現。服装やクレジットカードや振る舞いや会話のセンス。
そこにあるのは「自分が楽しみたい」という気持ちではなくいつの間にか「他人にどう映るか」を先に見ている自分でした。
その感覚は、当時の自分には自然なことに思えていました。
しかし、ある時からその直感は少しずつ違和感を帯び始めます。
自分が考えていた「自分らしさ」は果たして他人の眼差しの裏返しだったのか。
あるいは、他人の眼差しを借りて自分の価値を測っていただけなのか。
これは別に自分を責めるための話ではありません。
ただ、そこには明確に“比較”と“他者評価”の仕組みがありました。
私はいつの間にか、「他人に好かれる自分」=「価値ある自分」という式を信じていたのです。
その行為自体は、悪意でも何でもありませんでした。
むしろ、人間の自然な適応の仕方であり、社会の中で生きるための戦略でもあります。
だからこそ、当時の自分はそれを疑いもせずに「自分らしさ」と呼んでいたのです。
それでも、ある瞬間から、自分の内側にある違和感がすっと立ち上がったのを覚えています。
誰かの視線を気にして選んだ選択は、結果として、自分の内側の問いを曖昧にしてしまう。
そこには、純粋な自分の声は隠れてしまっていたのです。
今の私は、その頃の自分を「見栄っ張りなヤツ」だと軽く笑い飛ばすことができます。
しかし、その振る舞いの根底にあったものは決して恥じるべきものではありません。
それは、自分の価値を測るにあたり外側の尺度を選んでいた、過去の判断の一つの形でした。
むしろ重要なのは、その判断を変えようとした瞬間です。
他人評価を基準にすることをやめ、内側から立ち上がる問いへと焦点を移した瞬間。
それは簡単なことではありませんでした。
判断基準を自分の中に置くということは、他人の視線に頼らないということを自分に課す行為でもあるからです。
この文章は、かつての見栄っ張りな自省録です。
そして、その振る舞いに対する評価ではなく、そこから生まれた問いを静かに記しておくためのものにしたです。
後記
この文章は、他者の視線を基準にしていた若き頃の私の記録です。
現在は、その体験を単なる過去とはせず、到達や優劣ではなく思考の材料として捉え直しています。


コメント