「モテる」という基準で、選択をしていた頃の話
※この記事は、かつて「女性にモテるクレジットカード1位は?」というタイトルで公開していた内容を、現在の視点から読み直し、再編集したものです。当時の率直な感覚と、今の距離感の両方を残しています。

あの頃の私は、クレジットカードを**「どう見られるか」**という基準で選んでいました。
機能や条件以上に、それを差し出したとき、相手がどう反応するか?
少し極端に言えば、「モテるかどうか」が、判断軸のひとつになっていたのだと思います。
当時は、それを不自然だとは感じていませんでした。
カードは社会的な記号に過ぎないが、自分の立ち位置を説明してくれる道具でもある。
そう考えれば、“印象”を意識するのは合理的な選択にも見えたからです。
だから私は、
「女性にモテるクレジットカード」
という言葉を、半ば本気で使っていました。
ランキングを作り、優劣を語り、それなりに納得もしていた。
今振り返ると、その熱量の正体はカードへの期待ではなく、他人の評価への関心だったのだと思います。
誰かに良く見られたい。場で浮きたくない。きちんとした人だと思われたい。
そうした感覚が、カード選びという一見合理的な行為に、自然に入り込んでいました。
しかし、実際に使い続けてみるとあることに気づきます。
カードそのものが、人と人の間の関係を決定づける場面は、ほとんどありませんでした。
一瞬の話題にはなっても、それ以上でも、それ以下でもない。
期待していたほどの“効果”はなかったのです。
今思えば、それは当然のことです。
本来、人との関係性を形づくるのは、その人の個性、人間性や振る舞いや距離感であって、道具ではありません。
それでも当時の私は、分かりやすい記号に安心を求めていたのだと思います。
ここで大事なのは、その選択を「間違いだった」と断じることではありません。
あの時点の自分には、あれが必要だった。
他人の目を気にしながら、自分の立ち位置を探していた過程の一部だったのだと思います。
ただ、今は少し違う見え方をしています。
カードを選ぶ基準に、「どう見られるか」をほとんど置かなくなりました。
それは私が成長したというより、比較することに疲れを感じたという感覚に近いかもしれません。
「モテるかどうか」という基準は、分かりやすく、刺激的で、安心も与えてくれます。
その一方で、自分の判断を、常に外側に委ねてしまう。
そのことに、ある時から少し距離を取りたくなりました。
この文章は、過去の自分を切り捨てるためのものではありません。
ただ、あの頃は確かに「女性にモテるクレジットカード1位」という言葉を、疑いなく使っていた。
そして今は、その言葉を必要としなくなった。
それは成熟したオトコになったということでしょうか?
tあだ今の私のその変化を、記録しておきたかっただけです。
後記
この文章は、カードを「他者評価の道具」として捉えていた頃の自省記録です。
現在は、それらの体験を到達や優劣ではなく、思考の材料として捉え直しています。


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